ある本を読んでいたら、記憶術のことが書いてあった。いろいろな方法があるらしいが、たとえば数字の0から9を特定のアルファベットの子音に割り振り、それをもとに0から99までに対応する英単語を覚えて...云々。とても面白いのだが当方残念ながら英単語にはなじんでいないのでハードルが高い。そこで日本語で似たようなことを考えてみた。
思索の最近のブログ記事
終戦の日、テレビや新聞ではさまざまな論評をしている。NHKでは憲法改正と自衛隊の是非を問う討論番組をやっていた。
私は子供のころ東南アジアで育ったため、10歳頃に帰国したときはかなり左寄りの子供だった。日本軍は悪鬼のごとく残虐で、日本はアジアの国々に対して永久に償いきれない負債を負っており、自衛隊は憲法違反なのだから即時廃止するべきで、もちろん人類平等に反する天皇制も廃止するべきである。日の丸、君が代は憎むべき敵のシンボルだ。平和憲法という世界に誇れる宝があるのだから、たとえ外国に侵略されることがあっても、命に換えて守るべきである。そもそも武力を持たずに平和主義を貫き、周囲の国と誠実につきあえば侵略などされるはずがない。
…いま思うと、なんと子供らしい浅い思慮であったかと恥じ入る。一つ一つ考えていきたい。
①日本軍は悪鬼のごとく残虐であった
日本軍が残虐であったのは事実であろう。しかしそれは戦争というものがもつ残虐性であり、他国の軍が人道的なわけではもちろんない。残虐性をいうのであればアメリカの原爆のほうがはるかに残虐性が高い。日本軍のしたこともアメリカ軍のしたことも残虐という点では変わりない。補足するのであれば、食料も尽きた日本兵は人間としての品性を維持できないまでに追い詰められた。そのため特別に残虐となった場面もあるかもしれない。
②日本はアジアの国々に対して永久に償いきれない負債を負っている
戦争による負債という考え方は、戦争を行った一世代のみにとどめるべきである。それをしないから憎しみの連鎖が続くのであり、戦争が絶えない。これは人間が他の動物に徹底的に劣る部分である。歴史を正しく認識し、歴史から何かを学ぼうと思ったら、貸し借りや憎しみを外して考えなければいけない。
③自衛隊は憲法違反なのだから即時廃止するべきである。
国を守るための軍事力はいかなる主権国家にも保有が認められたものであり、本当にこれを一切もつことができないというのであれば、もはや憲法の名に値しない。自らを守る力を持たず他国の軍事的な傘の下で金儲けだけをしている国が信頼されるはずがない。私だって戦争は嫌だが、戦争を厭うことと防衛力を放棄することは別である。アジアの国々の反発を受けるというがそんなことは当たり前であり、それを恐れて丸裸でいるのが良いというのは亡国の思想である。
④天皇制については、これは日本の伝統文化であると認識をしている。たとえば天皇陛下の為に死地に赴く気はさらさらないが、正月やお盆の風習とおなじように、尊重して守っていくべきだとおもう。ただ日の丸、君が代については今でも違和感が消えない。そもそも何かのシンボルの下に括られるのが
嫌いな気性であるので、これは今後も変らないだろう。第一君が代は歌詞が悪い。教育の場で強制することも反対する。愛するべきはこの国の文化であり歴史であり、かつてここに生きた人々そしていまここに生きる人々であるべきである。何らかの恣意的な記号を愛するように刷り込まれるのは嫌だ。
⑤平和憲法という世界に誇れる宝がある。
平和憲法と呼べば格好よいかもしれないが、それに基づいて武力を放棄するとしたら、なんら平和に貢献をすることができない。僕は弱いんだから苛めないでよ、といってガキ大将の後ろに隠れているだけである。戦後の日本は軍事費を抑えたおかげで高度経済成長をすることができたという見方もあるが、だとすればそれは大声で誇るようなことではないし、今後も続けられると考えるべきではない。
⑥たとえ外国に侵略されることがあっても、命に換えて平和を守るべきである。
10代のころ友人が、『平和のためなら死んでもいい、他国が責めてきたら率先して殺される』と宣言したことがあった。こういう空論が国を守ることはないし、『だからあなたも一緒に死ぬべきだ』という考えに至ったとしたら、軍国主義と同じくらい恐ろしい。友人もそろそろ人の親になったと思うが、子の顔をみながら同じことが言えるだろうか。
こう書くとだいぶ右寄りのタカ派のようだが、私は街宣車で大音量の軍歌を撒き散らし、旧日本軍を賛美し、暴力団や総会屋とつながる右翼は明確に嫌いである。
ソウルフードとは、かつて貧しいアメリカ黒人たちが白人の食べない鶏や豚の内臓や足などで作った料理。それが転じてそれぞれの地域や民族で、子供の頃から食べてきた食べ物のことをさす。日本語でいえば『おふくろの味』というところか。
最近見たふたつの邦画(『UDON』、『かもめ食堂』)で、日本人にとってのソウルフードという話が出てきた。『UDON』ではもちろんうどん、『かもめ食堂』ではおにぎりのことをそう呼んでいた。そこで、勝手にランキングを作ってみた。人によってもちろん順位の違いはあろうし、異論もあるだろうがそこは笑っておさめてほしい。
【10位】かけそば
かつて『一杯のかけそば』という童話が話題となった。貧しい母子が毎年大晦日にかけそばを食べに来る。三人の母子は一杯のかけそばを分け合って食べ、帰って行く。日本中を感動の渦に巻き込み(とマスコミで喧伝され)、次に作者が寸借詐欺師であること、物語も実話ではなく創作の可能性が高いことが判明してバッシングにあった。実は私は結構な泣き上戸だが、この作品はあまりの物語の陳腐さにあきれてしまった記憶がある。とはいえ当初は多くの人が感動したと言っていたわけであり、かけそばという食べ物が日本人の心の琴線に触れるのは確かだと思う。年越し蕎麦は、大晦日の夜に一家そろって食べる。大晦日は掛け取り(商店のツケの回収)があり、庶民にとって払えるかどうかは大問題。それもすべて済ませて、除夜の鐘を聞きながら煩悩を忘れ、蕎麦を食べながら新しい年を迎える。蕎麦は救荒食物であったこともあり、江戸時代の人にとってはソウルフードNo.1かもしれない。しかし今はかけそばは駅でサラリーマンがかきこむファストフードに成り下がり、そうでない蕎麦は高価で風雅な食べ物となってしまっている。世代によるかもしれないが、自らの体験でかけそばを想いジーンとするひとは少ないと思うので、10位とする。
【9位】ラーメン、牛丼
学生時代、金がなくてラーメンばかりだったという人は多いはず。それも今風の凝ったものではなく、しょうゆだしの中華そば。ナルトとシナチクと薄いチャーシュー、場合によってはワカメとネギものっている。金があるときや体調が悪いときは生卵をのせてもらう。これとインスタントラーメンを合算すれば、それこそ俺の青春時代の主食だ!という人も多かろう。牛丼はラーメンと比べるとやや情緒性に劣るが、安くて早くて腹が膨れるので同じような役割を果たしてきたと思う。しかし先祖代々食べてきたものではないこと、子供の頃から食べてきたものでもないことから、9位とする。
【7位】ハンバーグ、カレーライス
子供が大好きな料理。簡単なのでお母さんもよく作る。ハンバーグはお弁当、カレーライスは夕食の定番中の定番。育ち盛りの子供の体の体重のかなりの部分はこのふたつの料理に由来するものではなかろうか。味付けも家庭ごとに個性があるし、ソウル度は高い。しかしこれも『子供の料理』といってしまえばそれまでで、あまり高位には上がれない。
【5位】目玉焼き
朝食はごはん派とパン派がいると思うが、パン派にとって外せないのが目玉焼き。3人兄弟とかだとフライパンで3つ一緒に焼いて、フライ返しで切って取り分ける。絵になる光景だが、日本的でないのがすこし弱い。
【4位】お茶漬け
『お茶漬けの味』という小津安二郎の映画と、まったく別の小松左京の小説がある。映画は未見だが、小説は遠く宇宙旅行をしてきた飛行士が知人がだれも生きていない地球に戻ってくる話だった。ストーリーを知らなくても、このタイトルをみれば誰もが望郷の念を抱くだろう。『俺はお茶漬けで育った』という人は少ないと思うが、それでもお茶漬けは日本人の心に染み付いている。
【3位】漬物
昔の庶民は、肉や卵を使った料理などはめったに食べられなかったろう。漁村を除けば魚もそう頻繁に食べられるものではなかったろう。そんな日々の食生活の上でおかずと呼べるものは漬物くらいだったに違いない。漬物は日本古来の保存食で、野菜類を醗酵させることにより保存性を増し、風味を増し、さらには栄養価も増す。地味ではあるが主食とともに日本人の命をつないできた食べ物なのである。かつては各家庭にぬか床があり、毎朝お母さんがきゅうりや茄子のぬか漬けを出してくれる。昭和の時代まではどの家でも見られた光景だとおもう。しかし最近は安価に作られた市販品で済まされれ、町の定食についてくる漬物も残されがち。残念ではあるが、飽食の時代にあってはあまり振り返られないものとなっている。
【2位】味噌汁
子供の頃、毎朝母親の味噌汁を作る包丁の音で目が覚める。実際にはそうでなかったとしても、多くの日本人が懐かしい子供時代の思い出の描写として認めるところだと思う。どんな日本食にも欠かせない。まさしく日本人の魂につながる食べ物。ただカロリーを得るという意味での主食ではないので2位とした。
【1位】おむすび
当たり前すぎて申し訳ないが、日本人としては米の飯を外すわけにはいかない。その中でもおむすびは携行食であり行動食であるため、勤勉で誠実な日本の庶民を支えて来た。さらに昔は銀シャリはめったに食べられないものであり、おむすびは収穫の喜びと感謝を神に捧げるお供えであり、最高のご馳走でもあった。現代でもおむすびはコンビニの定番商品で、忙しい企業戦士たちの活力を支えている。
黒人のソウルフードは、普段は意識をされることがなくても、民族の苦しみに満ちた過去、それに戦い生き抜いてきた誇りを想起する食べ物なのだろう。それゆえ彼らはそれに『魂の』食べ物という名を付けた。日本人がなにか大切な戦いをするときに用意する食べ物はなんだろう。やはりそれはおむすびだと思うのである。先日、生活保護を打ち切られた男性が餓死をする直前に『おにぎりが食べたい』という文を書き残していたと報道された。事件の論評は他に譲るとして、ソウルフードとはそういうものなのだろう。
人間に限らず、生物の生存可能な個体数は環境によって決まる。それは植物にとっては日照量や降水量、地面の肥料分であり、草食動物にとっては餌となる草木の量、肉食動物にとっては餌となる動物の量である。
偶発的な要因である生物の数が増えすぎると、大抵は餌が不足する事態となり、結果としてその生物は個体数を大きく減らす。そういうことを繰り返すのは効率が悪いため、環境に適応して進化した生物は、その環境で最も適切と思われる数の子供を生むようになり、個体数はおおむね安定する。
人類も、狩猟採集生活をしている時代はこの生物学の法則にしたがって生きてきた。子供をたくさん生んでもそれを養うだけの獲物をとることができない。人口を増やしても獲物の数がそれに比例するわけではない。よって個体数は安定し、環境も過度に破壊されることなく安定をしていた。
しかし人類が農業や牧畜を始めた段階で、状況は変った。人口に比例して食料生産を増やすことができるようになり、人口を増やすことが可能になった。更に、農業や牧畜は余剰作物からの富を得ることができる。そのため人口を増やすことに対する動機は高まった。
しかし農業や牧畜は、環境に対する搾取である。以前は持続可能なライフサイクルを保っていた環境も、過度な開発により疲弊し、従前の生産を上げることができなくなっていく。これは近代社会でのみ起きる現象ではなく、部族単位での興亡は有史以前より繰り返していた。
いま世界で起きている環境問題も、基本原理は同様である。ただ大きく条件が異なるのが、科学技術の進歩により搾取の度合いが酷くなっていることと、グローバル化によって影響が全世界に波及をしてしまう点である。人が徒歩や馬で移動をしていた頃は、ある地域の失敗は他の地域にあまり深刻な影響を与えることがなかったが、今日ではそれが全世界に影響を与える。とくに生物として直接的な影響があるのが食料問題である。
私は中学生の頃から郵貯のボランティア貯金というものに加入し、微額ではあるが利子の一部を発展途上国の食料援助や医療援助へ寄付している。私の価値基準では、これは小さいけれども誇るべきことと思える。
ところが、ここで恐ろしい想像ができる。私達の寄付で命をつないだ人たちが成長し、いま新たに子供を多数もうけてさらに食糧不足を加速させてはいないかという点である。更に恐ろしいのが、それが将来めぐりにめぐって世界的な食料危機につながり、私達自身の食料不足につながらないかという点である。
もちろん私は飢えた人々に食料支援をすることは賛成だ。医療援助も大切だと思う。だがそれだけで満足してはいけないのである。それは対症療法であり、根治からはむしろ遠ざかる道だ。いま起きているのは地球規模の定員オーバーであり、人間を増やさない努力をしなければいけない。
もちろんその為の手段として、人道を外れた方法をとってはいけない。しかし有効な手を打てずにいると、その地域での人間の間で緊張が高まり、民族紛争、宗教戦争、犯罪あるいは疫病の形で、極めて非人道的な報いを受けることになるのである。
生物は突然変異と選択淘汰により環境に適応し、今のように多様で驚くほど機能的な身体や行動を身に付けてきた。適者生存、弱肉強食の繰り返しにより、生物は進化をしてきたのである。
そこでいつも、事ある毎に気になって仕方がないことがある。人類はその社会を発展させてくるに従い、生存権や基本的人権という概念を生み出した。また科学技術を発達させ、猛獣と戦い、疫病と闘い、飢えや寒さと戦い、総体として勝利を収めてきた。そうして我々が先進国と呼ばれる地域で安心して暮らしている今、我々には進化のメカニズムは作用しているのだろうか。
先進国では、生まれた赤ん坊のほとんどは成長する。生物的に優れた(頭が良い、病気に強い、力が強いなど)個体が多くの子を残せるという傾向があるわけでもおそらくない。逆に、百年前なら生き延びることができなかったに違いない個体が(幸いなことに)医療技術のおかげで生き延び、成人して子を残せることもある。
誤解のないように言っておくと、私は何も生物としての進化を続けるために、劣った部分をもつ個体を淘汰するべきだというので決してはない。人類の将来を進化という面で憂慮しているわけでもない。核、地球環境、もっと憂慮すべき要因はいくらでもある。
ただ将来の人類は、私達や私達の祖先よりもずっと手足の力が弱く、病気がちで、目や歯や嗅覚や循環器や消化器が悪い人が多くなり、その時代の科学技術に依存しながら生きていくんだろうな、と思うのである。
そうして、いずれはエネルギー問題によって我々が頼っている科学技術の多くは使えなくなると思われる。そうなったとき、長い間サボった分だけ過酷な選択淘汰が、人類を襲うことになるのだろう。